安楽寺だより第20号(親鸞聖人のご生涯⑪)

安楽寺だより第20号 安楽寺News
この記事は約3分で読めます。

親鸞聖人の90年にわたる激動の生涯をたどるシリーズも、今回で最終回となります。

数々の苦難と流罪、そして非僧非俗の生活を経て、最晩年まで筆を執り続けた聖人。今回は、その最期の時と、現在まで続く「報恩講」の始まりについてまとめました。


【親鸞聖人のご生涯⑪】念仏の息絶えるまで。90歳の往生と「報恩講」の始まり

弘長2年(1262年)11月28日。

90年という長い人生を歩まれた親鸞聖人は、ついにその生涯を閉じられました。

最晩年まで続いた「執筆」と家族の絆

聖人は、亡くなる直前まで精精力的に著作活動を続けられていました。

京都での生活を支えたのは、末娘の覚信尼(かくしんに)でした。また、遠く越後に暮らす妻・恵信尼(えしんに)との間では、手紙のやり取りが頻繁に行われており、その内容は現在『恵信尼消息(恵信尼文書)』として残されています。離れていても、心の絆は深く結ばれていたのです。

弘長2年冬、静かなる最期

聖人が最期を迎えられたのは、京都・三条富小路(さんじょうとみのこうじ)にあった弟の尋有(じんう)の住居、「善法院(ぜんぼういん)」でした。

90歳を迎えた年の11月下旬、聖人は病の床に伏されます。

そして11月28日。

看病を続けた覚信尼や、急を聞いて越後から駆けつけた息子の益方入道(ますかたにゅうどう)、そして門弟たちに見守られながら、静かに息を引き取られました。

『御伝鈔』が伝える「念仏の最後」

ひ孫であり本願寺第3代・覚如(かくにょ)上人が記した『御伝鈔(ごでんしょう)』には、聖人の臨終の様子が次のように記されています。

「口に世事をまじえず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらわさず、もっぱら称名たゆることなし。しこうして同第八日午時、頭北面西右脇に臥し給いて、ついに念仏の息たえましましおわりぬ」

(口には世間話などを交えず、ただ仏様の御恩の深さを述べられた。声には余計な言葉を出さず、ひたすらお念仏の声が絶えることはなかった。そして28日の正午ごろ、頭を北に、顔を西に向け、右脇を下にして横たわり、ついに念仏の息とともに往生された)

苦しみや悩みの多い人生を歩み、自らを「煩悩具足の凡夫」と見つめ続けた聖人。しかし、お念仏の教えに出遇い、人間として本当に生きる道を貫き通した姿が、この最期の瞬間に表れています。

「大谷廟堂」から「報恩講」へ

聖人のご遺体は、東山の延仁寺(えんにんじ)で荼毘(だび)に付され、大谷の地に埋葬されました。

それから10年後の文永9年(1272年)。

覚信尼公と関東の門弟たちの協力により、吉水の北に六角形の廟堂(びょうどう)が建てられました。これが「大谷廟堂」であり、現在の本願寺の起源となります。ここに聖人のご遺骨御真影(ごしんねい)が安置されました。

さらに時を経て、永仁2年(1294年)。

覚信尼の孫である覚如上人が留守職(るすしき)に就かれていた時、聖人の三十三回忌にあたり、その恩徳を讃える「表白(ひょうびゃく)」を読み上げられました。

これが、現在私たちが毎年大切にお勤めしている「報恩講(ほうおんこう)」の始まりとされています。


親鸞聖人の肉体は滅びましたが、そのお心とお念仏の声は、750年以上の時を超えて、今の私たち一人ひとりにまで「相続」されているのです。

コメント