墓づくりに浪費しすぎて滅びた明王朝

お墓の歴史

新型コロナウイルスの変異株であるオミクロン株が猛威を振るい、開催が危ぶまれていた北京オリンピックも無事に開幕されました。
開催地の北京は、中国華北平原の東北端に広がる大都市で、チベット密教のポタラ宮殿と親交が厚く膨大な量の仏教文化遺産(約11万点)が保管されています。
お釈迦様が生まれた頃、この地は戦国時代は燕(えん)の都として、史記や春秋など中国史に登場します。
燕の時代、北京は薊(けい)と呼ばれていましたが、13世紀の中頃、中国を統一したモンゴル族が元(げん)の都としました。
モンゴル語で井戸を意味するフートンと呼ばれる集落が今でも残り、井戸を中心とした細い路地が、古き良き北京の面影をしのばせます。

明の時代入ると、第3代皇帝である永楽帝により奪還され、北京と地名を改めます。
永楽帝と言えば、紫禁城(しきんじょう:内廷は故宮博物院として一般に公開されている)を完成させた皇帝として有名ですが、紫は世界の中心を意味する北極星で、禁は一般人の出入りを禁止した意味を持ち、法律や命令はここに築かれた天安門から発表されました。
天安門の前に広がる広場は、白い花崗岩が敷詰められ、ナゴヤドーム10個分の広さがあり、ここを囲むように政府の主要機関が集まります。
皇居に赤坂御用地、首相官邸に国会議事堂、霞ヶ関に東京ドームが1つになったような場所です。

繫栄を極めた明王朝も、14代目 万暦帝(ばんれきてい)の時代になると、日本から大量の銀が持ち込まれ、富に溢れたせいで働く気力を失い、引きこもりになります。
亡くなるまでの25年間、一度も政治の舞台に姿を見せず、ひたすら税金を散財し、自分の墓づくりに没頭しますが、政界からの逃避と、墓づくりの浪費で、明はあっけなく滅びてしまいます。
これを恥じた毛沢東は、文化大革命の折りに、万暦帝の墓を掘り起こし、亡骸にガソリンをかけ焼き尽くしてしまうほどです。

明の時代を再興させた永楽帝は、常に厳しい財政の中で、国の未来図を描き、少ない資源を有効活用する道を模索しました。皇帝に即位しても、「常に倹約に」「財は庶民の救済に」「人事は平等に」と、基礎を固め、繁栄の築いた点では、真宗の蓮如上人と通じるものがあります。
一方、継承した親の財産にあぐらをかき、今日は何を食べ、週末はどこへ遊びに行くかだけを考え生きた万暦帝は、布教を忘れ銭勘定にまい進する、現代お寺に通じるものがあるのではないかと考えます。

明が終わった後、清の時代もこの地を都とし、1911年辛亥革命後には首都と定めますが、1928年蒋介石により南京に首都が移されると、首都の北を意味する北平(ペイピン)へ改称されます。
1937年に日本軍が占領すると、再び北京に呼び名が変わりますが、1945年の敗戦後に北平となりました。
1949年天安門広場で毛沢東の建国宣言により、現在の北京に呼び名が戻り、現在へ至ります。

下の写真は天安門広場から見上げた紫禁城にある太和殿(たいわでん)です。
奈良の東大寺や真宗大谷派名古屋別院(東別院)の本堂にそっくりですが、中国がコピーした訳ではありません。
仏教は中国から伝来し、漢字や木造建築、味噌や醤油と共に日本がコピーしたのです。
中央の毛沢東の写真を挟んで、左には「中華人民共和国万歳」右には「世界人民大団結万歳」とありますが、私たちが時々やるバンサーイ!も中国からのコピーです。
元東京都知事の石原慎太郎氏が亡くなられましたが、死んだらつけてくれるなといった戒名も中国からの伝統です。
では、肝心なお墓事情はどうかと言うと、コピー元の中国都心部でのお墓はマンション並みの値段です。
中国では、死を生と同等に扱う習慣があり、亡くなられた方にかける費用も半端ではありませんが、不動産バブルがはじけ、万暦帝の様な末路をたどる人々が増え続けています。

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