中日新聞2024年5月3日号朝刊に作家 宮城谷昌光氏の「英雄の育て方 空海」の記事が掲載されていました。
宮城谷氏は蒲郡の三谷町出身だそうですが、三谷漁港は蒲郡のマリーナに船を置いている頃、給油で幾度となく立ち寄り、丘の上の巨大な空海像は何度も拝顔いたしました。
空海の著作の1つである三教指帰(さんごうしいき)は、儒教・道教・仏教の比較論が記された出家の宣言書で、3つのパートから構成されます。
①亀毛(きもう)先生の儒教の教え。
②虚亡隠士(きょぶいんし)のが道教の教え。
③仮名乞児(かめいこつじ)の仏教の教えで、慈悲の観点から①②より優れている。
現代の日本仏教寺院において、儒教や道教の話を口にすると怪訝(けげん)な顔をされ、新興宗教の類と勘違いされてか、取り合ってはもらえないことが多くありました。
三教指帰からも、中国や朝鮮半島などの宗教に比べ、日本の仏教は最も優れているとの考えからであるかと思われますが、本当に仏教のみが勝っているのでしょうか?
親や年長者を敬う心は儒学の教えで、今でも「エレベーターやタクシーの乗る位置は?」、「宴会場では上座がどこで下座がどこなのか?」、「一番風呂に、出前の寿司桶に箸をつける順」など数え上げれば日本は長幼の序のしきたりばかりです。
儒教というと何のことやらまったく分からない方が多いと思いますが、秀吉の朝鮮出兵を機に日本に上陸した新たな朱子学(しゅしがく:仏教や道教などを融合させた次世代の儒教)は、家康の時代に江戸幕府の公式な学問として日本に定着します。
特に林羅山(はやしらざん)は、徳川家康・秀忠・家光・家綱の将軍4代に仕えたことが有名ですが、師であり近世儒学の祖といわれた藤原惺窩(ふじわら せいか)の門弟には石田三成(秀吉に仕官し、関ヶ原の戦いで西軍を指揮)や小早川秀秋(秀吉の正室ねねの甥、関ヶ原の戦いで勝敗を決める)などの名が連なります。
東軍家康の勝利後は、幕藩体制のもと国をよく治めるため「秩序」を守って「礼儀」を重んじ「敬う」心が大切であるとの教えが徹底されます。
規律を重んじる厳格な儀礼は、各宗派寺院でも継承されています。
安楽寺の山号である長岡為麿(為麿山)は、儒教をベースとした神道の教えを説いていたと古文書に記されています。
さらに時代を遡ると、親鸞聖人の袈裟に描かれている八ツ藤は、藤原氏にルーツがあるとのことです。
大化の改新(645年)で藤原の姓を賜った中臣鎌足(なかとみのかまたり)や、それを授けた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:天智天皇)は、遣唐使の一人であった南淵請安(みなぶちのしょうあん)先生が開いた塾で共に孔子の儒教を学んでいました。
この流れは平安時代から江戸時代末期まで続き、寺子屋では童子教や実語教といった儒教のテキストが使われており、戒名や年忌法要はもちろん、寺院で目にするほとんどの物が儒教から来たものです。
また、道教はお釈迦様のシンボルである牛に乗ってる無為自然な老子の姿が描かれ、儀礼を重んじる孔子とは対極的な思想ですが、大河ドラマ「光る君へ」に登場する安倍晴明の陰陽道へと続き、現代のお札、お守りなど加持祈祷のルーツとなります。
三教指帰は後に再編さんされたもので、空海が書いた御真筆(直筆の書)は聾瞽指帰(ろうこしいき)呼ばれます。
聾は龍に耳とかき「ろう」と読みますが、龍は耳を持たないことから聞こえないことを意味します。
瞽は鼓膜に鼓に目と書きますが、見えないことを意味します。
このことから儒教や道教の教えにとらわれて、仏教の教えを聞こう見ようとしないのは良くないことだとの解釈になったと思われますが、これは、父、母、息子の三者で誰が最も優れているのかを論じるようなものです。
子供がいくら優秀で出世したところで、親に勝るものではないことや、父母のどちらが大切なのかを比較すること自体が道理にかなってないことから、仏教のみが勝っているということは、空海が伝えたかった真意ではなかったような気がいたします。
仏教はインドから中国、朝鮮半島を経て日本へやってきましたが、中国では皇帝の上には天しかいないことになっていますので、仏教のお釈迦様の存在をストレートで受け入れるのは困難でした。
そこで仏教を東へと運ぶ荷車の2つの車輪が、儒教と道教であったのではないかと想像します。
今でもインドの国旗には車輪が描かれていますが、多くの日本人が信仰する大乗仏教は、単なる大きな乗り物ではなく、動かないものを動かす偉大(マハー)な乗り物(ヤナ)であったと思われます。
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