安楽寺だより第19号(親鸞聖人のご生涯⑩)

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親鸞聖人のご生涯をたどるシリーズ第10回

今回は、聖人の晩年に訪れた最大の悲劇、実の息子との別れ「善鸞義絶(ぜんらんぎぜつ)」についてまとめました。

84歳の老境にあった聖人が、なぜ愛する我が子と縁を切らねばならなかったのか。その苦悩と、揺るぎない信仰の姿に迫ります。


【親鸞聖人のご生涯⑩】涙の「善鸞義絶」。実の子との縁を切る悲しみ

親鸞聖人が関東から京へ戻られて20年余り。聖人が83歳になられた頃のことです。

遠く離れた関東の地では、鎌倉幕府による支配体制が強化され、念仏者への風当たりや弾圧が日に日に強まっていました。

関東の混乱と、息子の派遣

指導者不在の関東の門弟たちの間では、様々な異義(間違った解釈)を唱える者が現れたり、勢力争いが起きたり、あるいは土着の信仰と混ざり合ってしまうなど、教団は混乱を極めていました。

「どうすればよいのでしょうか」

聖人のもとには、手紙で指導を仰ぐ者や、はるばる京まで足を運んで教えを乞う者が後を絶ちませんでした。聖人はその一つひとつに真摯に向き合い、手紙(『御消息』)を書き送って、正しい信仰のあり方を説き続けられました。

事態を重く見た聖人は、自分の代わりとして、息子の慈信房善鸞(じしんぼうぜんらん)を関東へ派遣します。

善鸞の裏切りと「秘密の教え」

関東へ渡った善鸞は、当初は混乱を鎮めようと懸命に努力しました。しかし、事態は一向に収まりません。

焦ったのか、あるいは野心を抱いたのか。善鸞は、門弟たちの心を自分に向けさせるために、とんでもない嘘をついてしまいます。

「本当の念仏の教えは、父・親鸞から私だけに、夜ひそかに授けられたものだ」

善鸞は、誰にでも開かれたお念仏の教えを否定し、「特別な秘密の教えがある」と偽って人々を惑わせ、さらには地元の権力者と手を組んで勢力を拡大しようとしたのです。

「いまは、おやということあるべからず」

関東からの手紙で、我が子の暴走を知らされた親鸞聖人。

お念仏の真実を歪めることは、決して許されることではありません。

1256年、聖人84歳の時。

断腸の思いで、善鸞や門弟たちに宛てて手紙を送られました。

「いまは、おやということあるべからず、ことおもうことおもいきりたり」

(もはや親と呼ぶことは許さない。親として子を思う心も断ち切った)

これが世に言う「善鸞義絶状(ぜんらんぎぜつじょう)」です。

怒り任せの絶縁ではありません。多くの人々を、そして我が子ひとりさえも導くことのできない、自分自身の無力さを嘆く、血の涙が出るような深い悲しみの決断でした。

悲しみを越えて、筆を執る

愛する息子を義絶するという深い悲しみの中にありながらも、聖人の筆が止まることはありませんでした。むしろ、その悲しみを仏法への想いに変えるかのように、多くの執筆や書写に全精力を注がれました。

この頃、聖人が夢の中で感得されたという和讃(うた)が残されています。

「弥陀の本願信ずべし、本願信ずるひとはみな、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)ゆえ、無常覚(むじょうかく)をばさとるなり」

(阿弥陀様の本願を信じなさい。本願を信じる人はみな、仏様の光に収め取られ決して捨てられないという恵みをいただき、必ずさとりを開く身となるのだから)

人間関係の愛憎や世の無常を超えて、ただ阿弥陀様の本願だけを信じ抜く。

晩年の聖人の姿は、孤独の中でより一層澄み渡っていきました。

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