安楽寺だより第27号(二河白道のたとえ①)

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親鸞聖人が生涯の心の支えとされた、中国の善導(ぜんどう)大師による有名な譬え話、「二河白道(にがびゃくどう)のたとえ」

今回からシリーズとして、この物語が私たちに語りかける「救いの道」について紐解いていきます。

第1回目は、旅の始まり。私たちが「阿弥陀さまの声を聞く身」になる、そのきっかけについてです。


「死んだらおしまい」か、「光の世界」か

善導大師が説かれたこの物語は、単なる昔話ではありません。「浄土へ往生しようとするすべての人々への呼びかけ」です。

私たちは普段、無意識のうちに自分の人生や死について、こんなふうに思ってはいないでしょうか。

  • 「死んだらおしまいだ」
  • 「死後は、いずれ真っ暗な無の世界に落ちていく」

しかし、仏教(浄土真宗)が説く世界観は全く異なります。

「阿弥陀さまの智慧の光に照らされて生きていく世界がある」

死は終わりではなく、光といのちの世界への入り口であると教えられています。

「壁」に突き当たった時、旅は始まる

では、どうすればその光の世界に気づけるのでしょうか。

日頃、「当たり前」に生きていた人が、人生の大きな壁に突き当たることがあります。

病気、別れ、挫折、老い……。それまで信じていた「当たり前の日常」が崩れ去り、どうにもならなくなった時、人は初めて気づくのです。

「私の生き方は、なんと虚(むな)しいものであったか」

その虚しさに直面し、「人間として、自分はどう生きるべきなのか?」と問い直す歩みを始めた時、その人は「求道者(旅人)」となります。

順風満帆な時ではなく、行き詰まった時こそが、仏様の声を聞く「耳」が開かれる瞬間なのです。

途方もなく遠い道程

自分を問い直す旅に出た旅人。しかし、目の前に広がる道は、西(お浄土)に向かって途方もなく遠く続いています。

頼る人もなく、自分の力だけで歩むにはあまりに心細い道のりです。

果たして、私たちが迷わずに歩むべき「確かな道」はあるのでしょうか?


次回、いよいよ物語は「二河白道」の本題へ。

旅人の前に立ちはだかる恐ろしい光景と、その意味についてお話しします。

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