親鸞聖人が生涯の支えとされた善導大師の物語、「二河白道(にがびゃくどう)のたとえ」。
シリーズ第2回となる今回は、旅人が直面する「二つの巨大な河」の正体についてです。
西へ向かう旅人の前に立ちはだかったもの。それは、外にある障害物ではなく、実は私たち自身の心の中にある「業(ごう)」そのものでした。
旅路を阻む「火と水」の絶望
孤独な旅人は、西(お浄土)にあるという救いを求めて、「百千の里」という遥かな距離を行こうとします。
しかし、その道の途中で、突如として(忽然として)とてつもない障害に出くわします。
「忽然として中路に二の河あるを見る」
(ふと気づくと、行く手に二つの河があるのを見た)
「一にはこれ火の河、南にあり。二にはこれ水の河、北にあり」
(一つは南にある、燃え盛る火の河。二つ目は北にある、逆巻く水の河である)
「二河おのおの闊(ひろ)さ百歩、おのおの深くして底なし。南北辺なし」
(二つの河の幅はそれぞれ百歩ほどだが、深さは底がなく、南北の果ても見えないほど続いている)
私の心を映す「二つの河」
この恐ろしい二つの河は、一体何を表しているのでしょうか?
仏教では、これを私たちの「煩悩(ぼんのう)」であると説きます。
- 水の河(北)= 貪欲(とんよく):底なしの「欲望」です。あれも欲しい、これも欲しい、もっと愛されたい、認められたい……。尽きることのない執着の心は、私たちを飲み込み、押し流してしまいます。
- 火の河(南)= 瞋恚(しんに):激しい「怒り」です。思い通りにならないことへのイライラ、妬み、憎しみ。カッと燃え上がる心は、自分自身も周囲も焼き尽くしてしまいます。
「底なし・辺なし」の絶望
善導大師は、この河が「深くして底なし」「南北辺なし」であると表現されました。
これは、「まあ、これくらいなら我慢できる」というレベルの話ではありません。
私たちの欲や怒りは、一度火がつけば底が見えないほど深く、どこへ逃げても逃げきれないほど広大に広がっているのです。
旅人は気づいてしまいます。
「この火と水は、どこか遠くにあるのではない。私の体の中に、私の心の中に、どうしようもなく渦巻いているのだ」と。
自分の心にある「底なしの闇」を見せつけられ、旅人は立ちすくんでしまいます。
次回予告
欲望の水に流されるか、怒りの炎に焼かれるか。
絶体絶命の旅人の前に、それでも救いの道はあるのでしょうか?
次回は、いよいよこの絶望の中に現れる「私たちの歩むべき道(白道)」についてお話しします。



コメント