全てを手に入れ、将来を約束された王子が、なぜ地位も家族も捨てて「ホームレス(沙門)」になる道を選んだのか。
仏教の歴史において最もドラマチックな転換点、「出家(しゅっけ)」の物語です。
今回は、29歳のシッダールタ王子が、愛する家族に別れを告げ、真理を求める旅に出た夜の出来事をまとめました。
すべてを手にした王子の「虚しさ」
シッダールタ王子と妻ヤショーダラの間には、待望の世継ぎである男の子(ラーフラ)が誕生していました。
国中が喜びに包まれる中、王子の心はむしろ重く沈んでいました。
「この子は可愛い。しかし、この子もやがて老い、病にかかり、死んでいく運命にある……」
両親や妻は、王子の出家の決意を知り、涙を流して引き止めました。しかし、王子の視線はすでに「自分一人の幸せ」ではなく「全人類の苦しみ」に向いていました。
後年、お釈迦様はこの時の心境をこう語っています。
「人々は自分も老い・病に苦しみ・死んでいくのに、これについて深く考えようともしない」
「欲望は楽しみが少なく、苦しみが多く、悩みも多いのである。欲望より多くの禍(わざわい)がある」
「私は欲望の中に患いを見て、また欲望を求める生活の放棄こそ安らぎがあると見て、務めいそしむために出家するのです。そこに私の本当の喜びがあるのです」
享楽的な生活の先には「虚しさ」しかない。本当の安らぎを得るためには、ここを出なければならないと確信していたのです。
深夜の脱出と「開かれた門」
王子の決行は、ある夜、華やかな宴(うたげ)のあとに訪れました。
人々が眠り静まり返った宮殿を、王子は愛馬カンタカにまたがり、御者(馬の世話係)のチャンダカだけを連れて後にしました。時は29歳。
城の門は、王子を逃がさないように厳重に閉ざされていました。
しかし、伝説ではここで不思議な現象が起きます。王子の崇高な決意を祝福した天人(神々)たちが力を貸し、重い城門が音もなく開いたのです。
こうしてシッダールタは、二度と戻らない覚悟で闇夜を駆け抜けました。
王子から「沙門(修行者)」へ
翌日、一行はマイネーヤという場所に到着しました。ここが別れの場所です。
シッダールタは身に着けていた高価な装飾品をすべて外し、「これを城へ持ち帰り、皆に伝えてくれ」とチャンダカに渡しました。そして、自らの剣で長い髪を切り落とし(剃髪)、美しい王子の姿と決別しました。
一人歩き出したシッダールタは、途中、黄色い袈裟を着た漁師(猟師とも伝わる)に出会います。
「その粗末な服と、私の絹の衣を交換してくれないか」
彼はきらびやかな衣装を喜んで手放し、ボロボロの衣を身にまといました。
ここに、カピラ城の王子シッダールタは消え、一人の「沙門(しゃもん:修行者)」が誕生したのです。
真理を求めて王舎城へ
慣れない粗末な衣、初めての孤独な旅。
シッダールタは7日間、飢えをしのぎながら歩き続け、当時の大国マガダ国の首都、王舎城(ラージャグリハ)へとたどり着きます。
そこは、最新の哲学や思想を学ぶために、インド中から多くの知識人や修行者が集まる「知の都」でした。
元王子という身分を隠し、ただ一人の求道者として、お釈迦様の長く険しい修行の日々がいよいよ始まります。



コメント