安楽寺だより第35号(蓮如上人の御文)

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親鸞聖人の教えを、誰にでもわかる言葉で全国に広めた「本願寺中興の祖(ちゅうこうのそ)」、蓮如上人(れんにょしょうにん)。

今回は、波乱万丈な生涯と、手紙(御文)による布教、そして今に伝わるお勤めの基礎を築かれた功績についてまとめました。


母との別れ、忍耐の少年期

蓮如上人は、本願寺第七代・存如(ぞんにょ)上人の長男としてご誕生されました。

しかし、その幼少期は決して幸せなだけではありませんでした。わずか6歳の時、生みの母と生き別れるという悲しい運命を背負われたのです。

「母の分まで強く生き、仏法を広めてほしい」

母の願いを胸に、辛い少年期を耐え抜いた蓮如上人。叔父の助けにより17歳で得度(出家)されると、親鸞聖人のお書物をボロボロになるまで読み込み、浄土真宗の教えを深く学ばれました。

43歳での継承と「御文(おふみ)」の革命

蓮如上人が本願寺第八代を継承されたのは、43歳の時でした。当時の本願寺はまだ小さな勢力に過ぎませんでしたが、ここから上人の快進撃が始まります。

その最大の武器となったのが、「御文(おふみ)」と呼ばれる手紙です。

難しい仏教用語を使わず、当時の人々が使う平易な言葉で、阿弥陀様の救いを説いた手紙を次々と執筆。それを全国の門徒衆(信者)に送ったのです。

「手紙」という温かみのある手段は、人々の心にダイレクトに響き、またたく間に教えが広まっていきました。

試練を越えて説く「真宗の真髄」

勢力を拡大する本願寺に対し、既得権益を持っていた比叡山の僧侶たちは脅威を感じました。

蓮如上人が51歳の時、ついに京都の大谷本願寺が比叡山の衆徒によって破壊されるという事件が起きます。

しかし、この絶体絶命のピンチにあっても、蓮如上人は屈しませんでした。

拠点を吉崎(福井県)や山科(京都府)へと移しながら、あくまで暴力ではなく「言葉」で戦い続けました。

「弥陀の本願を信じ、ただ念仏せよ」

どんな困難な状況でも、阿弥陀様にお任せして、ただ「南無阿弥陀仏」と称える。このシンプルで力強い真宗の真髄を、生涯をかけて説き歩かれたのです。

「正信偈」「和讃」の開版とお勤めの定着

蓮如上人のもう一つの大きな功績は、現在私たちが毎日行っている「お勤め(勤行)」の形を定めたことです。

親鸞聖人が書かれた「正信偈(しょうしんげ)」和讃(わさん)」を木版印刷(開版)し、多くの人々が手に取れるようにしました。

これにより、僧侶だけでなく一般の門徒も声を合わせてお経を読む習慣が定着しました。

私たちが今、お仏壇の前で正信偈を唱えることができるのは、蓮如上人が「皆で声を合わせて念仏する喜び」を形にしてくださったおかげなのです。

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