親鸞聖人の90年のご生涯をたどるシリーズ第9回。
今回は、住み慣れた関東を離れての「京都への帰還」と、そこで語られた『歎異抄(たんにしょう)』に残る有名な言葉についてまとめました。
60代を過ぎてなお、揺るぎない信念を貫いた聖人の姿がそこにあります。
【親鸞聖人のご生涯⑨】60代での帰京と『歎異抄』の魂。「ただ念仏して」
親鸞聖人が、20年余り家族と共に過ごした関東の地を離れ、京都へ向かわれたのは62、63歳の頃でした。
1. なぜ、還暦を過ぎて京へ?
聖人が関東を離れた正確な理由は定かではありませんが、当時の社会情勢が大きく影響していると考えられます。
鎌倉幕府の執権が源氏から北条氏へと移り変わり、再び「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」への弾圧が厳しさを増していたのです。
弾圧を避けるという意味合いと同時に、聖人のライフワークである主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を完成させるためでもあったと言われています。
2. 京での暮らしと、火災の試練
京都に戻られた聖人は、末娘の覚信尼(かくしんに)や弟たちと共に、五条西洞院(ごじょうにしのとういん)に住まわれました。
しかし、建長7年には火災に遭い、住居を焼失してしまいます。その後は、弟の尋有(じんう)が住む三条富小路(さんじょうとみのこうじ)の「善法坊(ぜんぽうぼう)」へと移り住むことになりました。
3. 離れても広がる「念仏の輪」
聖人が京都へ戻られたことで、関東の門弟たちへの指導は、直接的なものから手紙などを通した間接的なものへと変化しました。
しかし、聖人が去った後も、教えを受けた門弟たちによって念仏の輪は広がり続けていました。いくつかの道場を中心に、恩師・法然上人のご命日である「25日」を念仏の日と定め、人々が集うようになっていたのです。
4. 『歎異抄』第2条 ― 命がけの問いと答え
一方で、指導者が不在となった関東の門弟たちの間には、信仰上の迷いや動揺も起こり始めました。
「聖人は何か特別な秘密の教えを隠しているのではないか?」
そう不安に思った数名の門弟たちが、十余ヵ国の国境を越え、はるばる京都の聖人のもとを訪ねます。
この時の問答が、名著『歎異抄』の第2条です。
聖人は、命がけでやってきた門弟たちに対し、ご自身の信仰のすべてを飾らずに語られました。
「親鸞においては、ただ念仏して、弥陀にたすけられようという、よきひと(法然上人)のおおせを身にうけて、信ずるほかに別にとりたててあげることはありません」
「たとえ法然上人にだまされて、念仏して地獄におちたとしても、すこしも後悔はいたしません」
「どのような修行もおよびがたい身でありますから、どうしてみても、地獄こそわたしのすみかなのであります」
「私には特別な秘密などない。ただ師匠を信じ、お念仏するだけだ。それで地獄へ落ちても後悔はない」
「そもそも私は、自分の力ではどうあがいても地獄へ落ちるしかない愚かな身なのだから」
聖人は、念仏者として自身の人生を尽くし、心の奥底で出会われた「真実」を、包み隠さず伝えられたのです。



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