安楽寺だより第11号(親鸞聖人のご生涯④)

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親鸞聖人のご生涯をたどるシリーズ第4回

比叡山を下り、師・法然上人と出会った聖人。しかし、その安らかな日々は長くは続きませんでした。

今回は、歴史的な大事件「承元の法難(じょうげんのほうなん)」と、師弟を引き裂いた非情な弾圧についてまとめました。聖人の激しい「怒り」が記された回でもあります。


法然上人(吉水教団)への弾圧。師との永遠の別れと、聖人の怒り

親鸞聖人は、20年に及ぶ比叡山での厳しい修行(自力聖道門)に見切りをつけ、「雑行(ぞうぎょう)を捨てて本願に帰す」と決意。

法然上人のもとで、ひたすら阿弥陀仏にお任せする(他力浄土門)生活を始められました。

救いを求める人々、それを嫌う既成仏教

聖人が6年間を過ごされた法然上人の「吉水(よしみず)教団」には、貴族、武士、僧侶、そして一般民衆まで、身分や男女の垣根を超えて多くの人々が集まっていました。

時代は源氏と平氏が争う乱世から、武士の世へと変わる激動期。

「その日を生きるだけで精一杯」という人々にとって、厳しい修行を必要とする従来の仏教は、到底実践できるものではありませんでした。そんな彼らにとって、「ただ念仏すれば救われる」という教えは、まさに闇夜を照らす光だったのです。

しかし、比叡山延暦寺や奈良の興福寺といった伝統的な仏教勢力にとって、この新しい教えは「秩序を乱す邪教」と映りました。

また、念仏者の中には「何をしても仏様が救ってくれる」と誤解し、あえて悪事を働く者が現れたこともあり、弾圧の機運は急速に高まっていきました。

門弟たちの失態と、後鳥羽上皇の怒り

法然上人は、「七箇条の制誡(しちかじょうのせいかい)」を定めて門弟の行き過ぎた振る舞いを戒め、なんとか事態を沈静化させようと努められました。

しかし、決定的な事件が起こります。

法然上人の門弟たちが催した念仏会に、時の権力者・後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が寵愛する女房たち(松虫・鈴虫)が、上皇の留守中に無断で参加(あるいは出家)してしまったのです。

これを知った上皇は激怒しました。

「承元の法難」下される無慈悲な判決

承元元年(1207年)2月。ついに「専修念仏(せんじゅねんぶつ)の停止(ちょうじ)」が決定されました。

その処罰はあまりに過酷なものでした。

  • 死罪: 4名
  • 流罪: 法然上人、親鸞聖人を含む8名

親鸞聖人は僧侶の身分を剥奪され、俗名「藤井善信(ふじいよしざね)」として、雪深い越後(えちご)の国への流罪を命じられました。

師である法然上人は土佐の国へ。

これが、敬愛する師との、今生の永遠の別れとなってしまいました。

『御伝鈔』に記された聖人の「怒り」

親鸞聖人の主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の巻末にある「後序(ごじょ)」と呼ばれる非常に有名な一節で、聖人のご生涯を記した『御伝鈔(ごでんしょう)』にも、この時の聖人のやり場のない怒りが、激しい言葉で引用し記されています。

ひそかに考えてみますに、 今の世の中では、自らの力で修行してさとりを開こうとする「聖道(しょうどう)門」の教えは、もはや行いも証(さとり)も久しくすたれてしまいました。ただ阿弥陀仏の本願を信じる「浄土真宗」の教えだけが、今まさに盛んになっています。

しかしながら、 古い寺院の僧侶たちは、教えに暗く、「真実の教え」「仮(方便)の教え」の区別すらつきません。 都の学者たちもまた、生き方を見失い、「正義」「邪悪」の道筋をわきまえていません。

こうした中で、奈良・興福寺の僧侶たちが、(念仏を禁止するように)朝廷へ訴え出たのです。 それは、後鳥羽上皇、土御門天皇の御代、承元(じょうげん)元年(1207年)2月上旬のことでした。

天皇も臣下も、仏法に背き、正義に反して、不当な怒りを起こし、我々念仏者に怨みを結びました。

このため、真実の教え(真宗)を興された偉大な師・源空(法然)上人、ならびにその門弟数名は、罪の有無を正しく調べられることもなく、みだりに死罪に処されました。 あるいは、僧侶の身分を剥奪して俗名を与えられ、遠い流罪の地に追放された者もいます。

私(親鸞)も、その流罪にされた中の一人なのです。

理不尽な権力と、民衆を救おうとしない既成仏教へ怒りのポイントは3つです。

  1. 既成仏教への批判 「伝統的な仏教(聖道門)はもう役に立たない。それなのに、僧侶や学者は自分たちが正しいと思い込み、真実が見えていない」と痛烈に批判しています。
  2. 権力者への怒り 天皇や大臣たちに対し、「仏法に背き、正義に違反している(背法違義)」と、当時の常識では考えられないほど激しい言葉で非難しています。
  3. 理不尽な弾圧 師匠である法然上人や仲間たちが、まともな取り調べもなく処罰されたことへの無念さが、「予其一也(私もその一人である)」という結びの言葉に込められています。

この怒りと悲しみを胸に、聖人は流刑地・越後へと歩みを進めることになります。

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