親鸞聖人の90年のご生涯をたどるシリーズ第7回。
越後への流罪を経て、関東の地へ入られた聖人。今回は、常陸(ひたち)の国(現在の茨城県)を拠点とした20年間の布教活動と、命を狙われるほどの危機、そして劇的な出会いについてまとめました。
【親鸞聖人のご生涯⑦】命を狙われても微笑んで。「ただ念仏を信じる」常陸での20年
建保2年(1214年)、親鸞聖人は42歳になられていました。
家族とともに上野国(群馬県)、下総国(千葉県・茨城県の一部)を経て、いよいよ常陸国(ひたち・茨城県)へと足を踏み入れられます。
ここから約20年間、聖人は笠間市稲田(いなだ)の草庵を拠点に、お念仏の教えを広める日々を送ることになります。
1. 迷信がはびこる土地で、膝を交えて
当時の関東は、生活環境が非常に厳しい土地でした。
明日をも知れぬ暮らしの中で、人々の心は不安定になり、「吉凶禍福(きっきょうかふく:占いや祟り、日の善し悪し)」を気にする土着の信仰やまじないが深く根付いていました。
そんな中、聖人は危険も顧みず、自ら人々の生活の場へと足を運ばれました。
高座から説教するのではなく、民衆と同じ目線で、膝を交えて「阿弥陀如来の救い」を熱心に語り合う。
かたくなだった人々の心にも、聖人の確信に満ちた言葉と温かいお姿によって、次第にお念仏の教えが染み渡っていきました。
2. 山伏・弁円(べんねん)の殺意
しかし、念仏の教えが広まることを快く思わない者もいました。
聖人から3代後の覚如(かくにょ)上人が記された『御伝鈔(ごでんしょう)』には、こんな事件が記されています。
聖人の草庵の近く、板敷山(いたじきやま)に、弁円(べんねん)という山伏(修験者)がいました。
「親鸞め、念仏などで人々を惑わせおって」
自分の信者が聖人のもとへ流れていくことに嫉妬と怒りを覚えた弁円は、聖人を待ち伏せして切り殺そうとしたり、呪い殺そうとしたりと、執拗に命を狙いました。
3. 「害心たちまち消滅して」
ある日、しびれを切らした弁円は、刀を持って聖人の草庵に怒鳴り込みました。
絶体絶命の瞬間です。
しかし、聖人は逃げることもなく、穏やかな笑顔で弁円を迎え入れ、こう仰いました。
「わたしは、お念仏をただ信じ、人に伝えているだけなのです」
武器を持った相手に対し、少しも悪びれず、ただ真実を伝えるその姿。
聖人の屈託のない笑顔と尊い人格に触れた瞬間、弁円の心に衝撃が走ります。
「害心たちまち消滅して、後悔の涙禁じがたし」
(殺そうとする心は消え失せ、後悔の涙が止まらなくなった)
弁円はその場でひれ伏し、改心しました。そして聖人の弟子となり、「明法房(みょうほうぼう)」という名を授かって、生涯聖人に仕えることとなったのです。
4. 広がる「僧伽(サンガ)」
この出来事は、聖人の教えが単なる理屈ではなく、生き方そのものに現れていることを証明しました。
聖人の教化は、稲田の草庵を中心に、常陸、下総、下野(しもつけ・栃木県)の北関東三国、さらには東北地方にまで及びました。
こうして各地に、お念仏を喜ぶ人々の集まり(僧伽:サンガ)が生まれていったのです。
現在、茨城県笠間市稲田にある「西念寺(さいねんじ)」は、かつての「稲田の草庵」の地であり、今も多くの参拝者が訪れる聖地となっています。




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