善導大師による魂の物語「二河白道(にがびゃくどう)のたとえ」も、いよいよクライマックスの第11回です。
絶体絶命の状況で、ついに「白い道」を見つけた旅人。しかし、歩み出した彼の背後から、今度は精神的な揺さぶりが襲いかかります。今回は、「道の発見という感動」と、歩みを止めようとする「魔の声」についてまとめました。
「道があった!」発見こそが感動のはじまり
旅人は、お釈迦様の「行け」という励ましと、阿弥陀様の「来れ」という呼び声に導かれ、恐る恐る、しかし決意を持って白道へと足を踏み出しました。
ここで重要なのは、「歩むべき道を発見したこと」そのものが、最大の感動であるという点です。
「もう助からない」と諦めかけた絶望の中で、「生きる道(往生の道)がある」と気づくこと。この気づきさえあれば、私たちはどんな困難な状況でも、限りない一歩を踏み出すことができます。
仏教における救いとは、魔法のように状況を変えることではなく、「進むべき確かな道(生きる方向性)」を見つけることなのかもしれません。
背後からの呼び声「戻っておいで」
しかし、感動も束の間。旅人が歩き始めるとすぐに、出発した東の岸(迷いの世界)から、群賊たちが大声で呼びかけてきました。
「仁者(きみ)かえり来れ、この道険悪(けんあく)なり。禍(そこな)うことを得じ。必ず死せんことを疑わず」
(おい君!戻ってきなさい。その道は険しくて危険だ。渡り切れるわけがない。行けば必ず死ぬぞ!)
さらに彼らはこう付け加えます。
「我等すべて悪心あってあい向かうことなし」
(俺たちは決してお前を傷つけようとしているんじゃない。心配して言っているんだよ)
「根拠のない言葉」という妨害
これは何を意味しているのでしょうか?
白道を歩き始めた人(仏道を志した人)には、必ずそれを引き止めようとする「魔の手」が伸びるということです。
- 「そんな真面目なことして何になる」
- 「修行なんて辛いだけだ、こっちで楽しもうぜ」
- 「お前には無理だ」
これらは一見、親切な忠告(善意)のように聞こえますが、実際は歩みを妨げるための「根拠のない言葉(妄説)」です。
私たちの迷いの心や、世間の無責任な声は、せっかく見つけた「真実の道」から引きずり下ろそうと、執拗につきまとってくるのです。
次回、最終回へ
「戻れば死ぬ(地獄行き)」とわかっているのに、「戻っておいで、悪いようにはしないから」と甘く囁く声。
果たして旅人は、この巧みな誘惑を振り切り、歩き続けることができるのでしょうか?
それとも、不安に駆られて振り返ってしまうのでしょうか?
旅人の決断、そして物語の結末は、次回の最終回で明らかになります。



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