浄土真宗の東と西って何?

京都の浄土真宗の方は「お東さん」「お西さん」と言いますが、前回のブログ記事「浄土真宗は何派ある?」の10派中上位2つ位置が、京都駅に違い東側の「大谷派」と、西側の「本願寺派」と呼ばれています。

今から500年ほど前の戦国時代には石山本願寺と呼ばれる1つの浄土真宗でしたが、織田信長の天下統一で激突し、これが2つに別れる事になります。
今でこそ、石山本願寺と呼ばれるようになりましたが、当時は「大阪城」と呼ばれただけあって、周囲はお堀や塀に囲まれ、武装を固め、お寺というより1つの武装国家を形成していました。
10年以上の戦いの末、信長と和睦するかどうかをめぐって石山本願寺内で対立が起こります。

トップの顕如(けんにょ)と三男は「和睦」を主張するが、長男は「対立」を主張
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信長から明智光秀に本願寺攻撃の命が下る
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本能寺の変で、光秀は本願寺ではなく信長を打ち取る
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家康が登場し、本願寺の勢力を弱めるため、長男に莫大な財を寄進し、新たに「東本願寺(大谷派)を建立」させる

安楽寺が所属する、浄土真宗大谷派の名古屋の拠点である東別院は、元々は織田信長の父信秀の居城(古渡城)が家康によって取り上げられ、東本願寺に寄進されたものです。

現代では、10に別れた各浄土真宗の宗派は盛んに交流し、東も西もお経の音程が違うぐらいで、ほぼ同じであると言われています。
私は、以前に東別院で行われた親鸞聖人750回忌法要のポスターのデザインを手がけさせていただいたことがあるのですが、「これは東じゃなくって西の親鸞聖人だ!」と東の大谷派住職たちからクレームが付いたことがあります。
親鸞聖人は一人だけだと思っていましたが、宗派によっては違う人の様です。
どうやら東西のお寺さんたちの間で、本能寺の火の粉は、令和になった今でも目につかないところで燻ぶっていますね。
苦労して描いた親鸞聖人像は、北か南へ売りに行くしかなさそうです。

京都 東本願寺