西遊記と仏教伝来(中国編②法顕 敦煌)

法顕の天竺を巡る旅 中国仏教

大唐西域記を最初に書いた法顕

西遊記は玄奘の大唐西域記がモデルになったとされていますが、最初に大唐西域記を書いたのは、竺法護(じくほうご:233年)の約100年後に生まれた 法顕(ほっけん:337年)で、彼もまた三蔵法師の一人です。

法顕は中国での仏教において、三蔵の1つである戒律が大きく欠けているのでは無いかと疑問に持ち、60才を過ぎてから命懸けでシルクロードを経由し、インドに渡り旅をし中国に仏典を持ち帰ります。
これを元にして涅槃経(ねはんぎょう)などが誕生し、韓国を経て日本へも仏教が伝来することになります。
西洋カトリックでも、戒律崩壊を嘆いたルターによりプロテスタントが誕生し、新天地の開拓でアメリカが建国されるに至りました。
今でもアメリカ大統領は皆プロテスタントですが、戒律を重んじる源流は法顕に始まります。

戒律が欠けていると何がいけないのでしょうか?

竺法護が生まれた時代は、吉川英治が著した「三国志」の時代です。
3つの国である、魏・蜀・呉の最後はどうなったのかというと、孔明や劉備など主要な登場人物は皆亡くなり、曹操に仕えていた軍師 司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)が西晋時代の礎を築きます。
司馬懿仲達は生前に皇帝になることはありませんでしたが、亡くなってから宣帝という贈り名を受けます。
法顕の時代になると、ひ孫の司馬睿(しばえい)が東晋を建国し皇帝となり、その長男の司馬紹(しばしょう)へと続きますが、軍事顧問による絵に描いた政権は長くは続きません・・・

司馬家は軍の参謀の家系だけあって、圧倒的な知略と武力で平定することは得意でしたが、統治は長く続るため人心は得るのは難しく、その答えを天竺の仏教へ求めます。

14年間にわたるインドへの厳しい旅

竺法護の経典を手がかりに、法顕は60歳を超えた老体に鞭打ち、荒廃しきった中国長安を出発した(西暦399年)とされますが、旅立つまでの記録が残されていません。
また、同行した4人の僧侶の詳細もよく分かりません。
ただ分かっていることは、タクラマカン砂漠を経てパミール高原を越え命がけの旅であったということだけです。

シルクロードを西へと向かい、インドを縦断してセイロン(現スリランカ)を経て中国へ戻る旅行記は、14年もの歳月が費やされ、自ら記した「法顕伝」に遺されます。

法顕らは、経典や戒律の誤訳や欠けている点を嘆き、残りの人生を賭けて真理を求める旅に出たとされていますが、幼少期から僧侶であったなら何も疑問は感じなかったでしょうから、出家したのは遅かったかも知れません。
政治も宗教も特権を手にすることで大変腐りやすい性質を持っており、傷みやすく足が早いので、戒律をもって自ら戒め腐敗を止めねば、長続きしないのは今も昔も変わりありません。

法顕の辿ったシルクロードの道のり

長安は、秦、漢、隋、唐など13の王朝の都で、現在は西安市で中国西のはずれに位置します。
次の目的地である楼蘭まで、直線距離で2000kmと日本列島がスッポリ収まる距離です。
タクラマカン砂漠の西にあるカシュガルは、ローマとインドを結ぶ中継地点です。
ヒマラヤ山脈を迂回してたどり着いたバーミヤンは、アフガニスタンの仏教遺跡で、岩肌を彫り抜いて巨大な仏像(55m)へ玄奘が訪れことが、「大唐西域記」にも記されています。
インド、セイロン(現スリランカ)を直線で結んだだけでも7000km以上あります。

炳霊寺から敦煌へ

長安を出発し、炳霊寺(へいれいじ)で雨安居(うあんご)のため3ヵ月間を過ごします。
炳霊寺石窟はダムにより集落が湖底に沈んだため、遊覧船での観光スポットになっています。
雨季は戒律により外出できない期間となりますが、疫病対策の隔離期間であったと思われます。
今でも日本の禅宗にはこの習慣が修行の一環として安居が残されています。

梅雨が明け、敦煌に向け出発した法顕は初めてラクダに乗りますが、これは安全を第一に考えた北涼の初代王の計らいです。また、護衛として5人の僧が加わります。
これが西遊記で白馬に乗った三蔵法師、護衛の孫悟空らのモデルになったのではと思います。

秋には敦煌へ到着し1ヶ月余りを過ごしますが、中国から続く一本道のシルクロードはここで複数の経路へと別れます。
法顕がこの地で出会った李暠(りこう)は敦煌を支配する太守でしたが、大変苦労人で意気投合したことでしょう。
唐代に成立した『晋書』によると、日本仏教に大きく影響を与えた唐の初代皇帝 李淵(りえん)は、この李暠の子孫といわれています。
また、「新唐書」によると、松尾芭蕉が尊敬していた唐代詩人の李白も李暠の子孫とされています。

敦煌は日本仏教の源流

日本から見ますと敦煌は辺境の地に思われるかもしれませんが、西域・インド文化の玄関口でもっとも先進的な国際都市です。
中でも莫高窟(ばっこうくつ)は、東西から集まった僧侶らの手により、千年にわたって2400体以上の仏像が彫られた有名な石窟ですが、1900年に偶然発見されるまでは、砂に埋もれ人目にさらされることはありませんでした。
イギリスの探検家によりほとんどが持ち去られた後、1912年浄土真宗の大谷探検隊により数百点の文章が持ち帰られますが、国際都市だけあって仏教以外の拝火教(ゾロアスター)やチベットのマニ教、景教(キリスト教)など様々な資料が含まれ、敦煌学と称されます。
仏像や浄土思想も含め、日本仏教のすべての原点がここに見られます。



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