西遊記と仏教伝来(中国編①竺法護)

西遊記と玄奘三蔵 中国仏教

明けましておめでとうございます。

インドから中国へどのようにして仏教が伝来したか

シルクロードはローマから中国へとつながりますが、仏教はこの1万キロの道のりを1千年かけ伝わりましたが、道中は大変危険なルートであった為、中継地点をいくつもつくり、担当キャラバン商人がそれぞれのルートをリレーのように橋渡しをすることで交易が続けられてきました。

シルクとは絹(きぬ)のことですが、蚕(かいこ)の幼虫の繭(まゆ)から作り出されたもので、起源は約5000年前に中国人がその性質を発見したことが始まりとされています。
その製法は国家機密をされ、ローマでは同じ重さの金と取引されるなど大変貴重なものでした。
シルクの対価として中国にもたらされた物の1つが仏教でした。
他にも西方の異民族である 胡(えびす)のつくもので、胡椒(こしょう)に胡麻(ごま)、胡瓜(きゅうり)に胡桃(くるみ)とその名残は漢字となって日本でも受け継がれています。
仏像に多く見られる胡坐(あぐら)に、ローマからもたらされた胡酒(ワイン)などなど、胡のつくものは多くあります。
西方の商人により偽経典をつかまされた事例も多く、騙された人たちの「胡散(うさん)臭い」という表現は、今でも日常でよく使われています。

西域から中国へ仏教が伝来

今回の中国編では、西域から中国へ仏教が伝来する瞬間を切り取り、貢献した人物にスポットを当て考察してみたいと思います。仏教発祥の地インドでは、口伝えで教えが広まったため、文字として残されませんでした。
文字になってお経が記されたのは、お釈迦様が亡くなられたずいぶん後のことです。
西遊記では、中国へは断片的にしか伝わらなかったため、欠落している部分や誤った解釈が横行し、仏教そのものが腐敗しきったため、教えの真理を求めて天竺(てんじく=中国や日本が用いたインドの旧名)への旅が始まります。
日中平和友好条約が調印された1978年には、夏目雅子さんが三蔵法師を演じられた西遊記がTVで全国放送され、仏教がインドから中国を経て日本へやってきたと初めて知る人も多かったのではないでしょうか。

三蔵法師は人の名前ではなく、僧侶の尊称です。

三蔵は仏教において重要な3つの柱である ① 経(釈迦の教え)② 律(僧の規則)③ 論(経と律の解釈)のまとめた3つの蔵書に精通した人を意味します。
法師は人を導く学識と経験を備え持つ特に玄奘の時代は、住職の実力を備えながらも自らの寺を持たない僧侶を意味し、日本でも一寸法師などのように弱いものが強大な敵を打ち破る意味を含みます。

天竺からやってきた竺法護

サンスクリット語は、中国や日本の文化にも多大な影響を与えています。
例えば月の事をindu (インデュ)と言いますが、最初に言ったのが西遊記の主人公である玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)です。
インドから中国に移り住んだ人の性は竺(じく)と呼ばれていました。有名な方では3世紀の竺法護(じくほうご)が居ますが、初期の法華経や般若経を訳した人で、インドから来たので「月の菩薩」と言われています。
竺という文字は竹冠に二と書きますが、二は厚いことを意味しますので、成長した分厚い竹を指します。お経は短冊に切った丈夫な竹簡に記され、インドから中国へ持ち込まれたので「竺を持ってきた人=じくさん」と呼ばれたのではないかと思います。
「仏説阿弥陀経」のほか、「妙法蓮華経」や「摩訶般若波羅蜜経」は、竺法護から117年後に、初代三蔵法師であった鳩摩羅什(くまらじゅう)によって編さんされますが、玄奘三蔵によって詳しく解き明かされたのは、さらに250年後の事です。
羅什の訳した経典を旧約仏教、玄奘が訳した経典を新訳仏教と言いますが、まるで聖書のようですね。
西遊記は玄奘の大唐西域記がモデルになったとされていますが、最初に大唐西域記を書いたのは旧約仏教時代の法顕(ほっけん)ですが、続きは次の記事で・・・

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